横沢入の歴史文化遺産の整備・復元・活用についての提言 伊奈石の会 1.横沢入の歴史・文化遺産の概要と現状 横沢入周辺の登録された遺跡としては、中世城館跡、社寺跡と見られる大悲願寺遺跡(周知の遺跡No.25)、縄文時代前・中・後期、古墳時代後期、平安時代の遺物包含地で集落跡と見られる東平遺跡(周知の遺跡No.26)がある。また草堂の入り入口の現在ヒノキの植林地となっている人工的な平場は大悲願寺文書から阿弥陀堂があったと見られ、地中レーダー探査によって版築状の面と溝状落ち込みを確認している。ここでは江戸期の陶片も表面採集されている。 伊奈石石切場遺跡 伊奈石石切場はあきる野市の横沢、三内、伊奈砂沼、高尾、網代、入野樽、日の出町の平井、大久野に遺跡・遺構が分布している。このうち横沢入には、谷戸を囲む山中の東西1.6km、南北1.4kmの範囲に採掘坑46個所、石を積んで平場とし加工場として利用したと見られるテラス96個所以上が点在する。テラスの多くは谷側に石積を伴っている。また、採石・加工の際に出る砕片の投棄場であるズリ場14個所以上、石を運ぶための古道4個所以上がある。(『伊奈石・伊奈石の採石加工と多摩川流域の流通についての研究』伊奈石研究会1996) 伊奈石製石造物の在銘最古の石造物は、暦応元年(1338)銘の宝筐印塔であるから伊奈石採掘加工の歴史が室町時代に遡ることは明らかである。採石の最盛期は大悲願寺文書や遺品の紀年銘から江戸時代後期と見られるが、その後もほそぼそと続き、戦前戦後の一時期には住居や鉄道の敷石としてズリ石が大量に搬出された。 数百年を経た遺跡の現状は、石積の崩壊や、テラス上の土砂の堆積、古道の路肩崩壊などが進行している。当会は2001年1月以来、横沢入里山管理市民協議会(久保田繁男座長・2003年10月現在6団体1個人)を通して冨田の入り古道及び天竺山東尾根遺構群を中心にヤブ払い、倒木整理、草刈りなどの表面的な整備を進めているが、古道・登山道の修復、石垣の復元、斜面の土留めなど遺跡の崩壊をくい止めるための課題の大半は今後にのこされている。 戦争遺跡 昭和20年(1945)2月、千葉県佐倉の陸軍第64連隊が本土決戦に備え、増戸小学校に寄宿して横沢入の山麓に30個所に及ぶ物資隠匿用の壕を築いた。中に入れた物資は当時引田駅北側にあった陸軍立川航空工廠引田資材倉庫の物資を疎開したもので、パラシュート、飛行機部品、エンジン、地図類などがあったことが住民の聞き取り調査でわかっている。 壕は松材を枕木にした横穴式地下壕と山麓の斜面に溝状に掘り込んだ掩体壕の二通りがあるが、いずれも崩壊が進行して下部にうず高く土砂が堆積している。横穴式地下壕は入口部分が堆積した土砂でふさがっているものも多く、かろうじて中に入ることのできるものもある。 近年「戦車橋」と通称されてきた二つの鉄枠の橋は、当会の戦争遺跡調査(会誌『伊奈石』第4号別冊2000)で牽引車の車体であることが分かった。一つは宮田から中央湿地への流れに、一つは横沢川中流部下の川との合流点近くにかかっているが、特に下の川近くの方は橋としての機能を十分に果たしておらず、将来架け替える必要がある。どちらも前記本土決戦準備に伴う物資隠匿の目的でこの地に運ばれてきたものであろう。 炭焼窯跡 釜の久保東沢の標高255mにある。焼成部、焚き口部をそれぞれ伊奈石のズリ石を積み上げて築き、底部にも伊奈石ズリ石を敷いた径2mほどの小形の簡単な石窯である。築かれた時代を推定する遺物はないが、地域の古老にも横沢入で炭を焼いたという記憶も伝聞もないため、明治期から近世に遡るものである可能性もある。この谷はアオキの密生する暗い谷で崖錐堆積物が厚く堆積しているため窯下部の斜面は非常に登りにくい。(会誌『伊奈石』第5号2001) 2.歴史・文化遺産の整備・活用の基本的な理念 ・歴史、文化を学ぶふれあいの場として生涯学習、学校教育の「総合学習」などでの活用を 横沢入は地質、地形、動植物、森林、谷戸の農業、中世から近代の歴史、などについて実物を見、体験しながら学習できる都内では貴重なフィールドである。その自然環境や歴史遺産の豊富な内容は2002年から本格実施された新しい学習指導要領の「総合的な学習」の場として多くの学校にさまざまな切り口の学習テーマを提供し得る。特に骨格尾根から谷戸まで開発による破壊を受けずひとまとまりで残った地形は、自然の形成史の中で現在の自然を理解する学習の格好の場である。 伊奈石石切場遺跡は都内にのこされた唯一の大規模な石切場遺跡であり、市・都の史跡として指定される資格が十分にある。また、周辺の地域は緑の多い落ち着いた雰囲気の町並みの中に伊奈石で造られた石仏、石造物が多く見られる。伊奈石石切り業や石工の動向は、周辺の地域史と深く結びついており、そのことは『大悲願寺日記』などの遺された文書資料によって学習し得る。 このように、この地域では、生産現場そのものが石切り最盛期の江戸時代後期の状態で遺り、当時造られた石仏・石造物も見ることができ、その信仰対象にこめられた文化や民俗を知ることができ、文書資料によって調べ、学習し深めることができる。歴史学習のためのさまざまな条件が好都合に揃った希有な地域であると言える。訪れた人は山道を歩いて健康を増進しながら石切場をめぐり、大悲願寺や伊奈中平庚申堂や塩地蔵堂で石仏を見て往時の信仰を知り、増戸図書館で資料を探すことができる。こうした生涯学習の場としての条件の良さを、より多くの都民に知らせ積極的な活用をはかるべきである。 ・地域の歴史、文化、文化財、民俗、地場産業などを、それらが生きた形で展示するエコミュージアム(地域まるごと野外博物館)の一環としての活用を エコミュージアムは、従来の博物館の発想とは違って、展示物をそれらが実際に使われ残されている状況の中で、生きた形で展示しようとするものである。具体的な例をあげれば、石臼や民具をスペースにただ並べるのではなく、伊奈臼で挽くそばを提供するソバ屋さんや横沢入での稲刈り体験の後、学習施設でくるり棒による脱穀の体験もできる、といったような展示・活用の考え方を言う。この例でのソバ屋さんや横沢入の谷津田やくるり棒体験の場をサテライトとし、サテライトを結ぶウォーキングトレイルを例えば「文化再発見の道」と名付け、中心となる学習・展示・地場産業の生産物を売る施設=コア施設を置く。 このような活用の考え方は一定の地域範囲を想定するが、秋川流域を範囲として想定し自然史博物館をコア施設としたものに「秋川流 域エコミュージアム構想と五日市のまちづくり提言」(樽良平『伊奈石・伊奈石の採石加工と多摩川流域の流通についての研究』伊奈石研究会2000)が、当面横沢入と周辺の地域に限って考えたものに「ヨーロッパのエコミュージアムと横沢入里山エコミュージアム構想」(十菱駿武・会誌『伊奈石』第2号1998)がある。 前者は、比較的限られた範囲に古生代から新生代までの地層と各時代の化石産地を持つ秋川谷の、自然史学習上の重要性に立脚して博物館を誘致しようとするものでその意義は高いが、ここでは当面実現可能な横沢入内部と周辺に限定して展開を考えてみる。 横沢入には、伊奈石石切場遺跡、炭焼窯跡、戦争遺跡、谷津田、雑木林、植林地、湿生植物群、野鳥観察ルート、トンボ池、ホタル観察地、セリ摘みエリア、等々をサテライトとし、里山発見のトレイルの整備をする。周辺まで広げて見ると、大悲願寺、伊奈中平庚申堂、五輪坂、路傍の石仏、塩地蔵堂、明光寺、成就院、伊奈新宿の地蔵堂、三内神社、三内秋川河原の石切場跡、高尾・網代の石切場跡、網代弁天洞窟、秋川河原の化石産地、岩走神社、横沢の旧五日市街道、伊奈の市神様、伊奈新宿の町並み等々この地域は歴史・文化遺産に非常に恵まれており、これらの歴史遺産の再評価と風化防止、伝承の継承などの課題は、横沢入の問題を抜きにしても重要課題であるから、横沢入の整備と同時進行で相互に関連づけながら整備・活用することはむしろ現実的である。また、「伊奈石」や「パレオ饅頭」などの地域史になぞらえた菓子を製造販売している恵比寿屋、地域農業の生産物を売るファーマーズセンター、店頭に伊奈石石造物や民具を展示し店主自ら地域史を絵画に描き続けて展示もしている「スタジオフォト中村」などの商店は、そのままサテライトとして位置づけ得る。 いずれにしても、エコミュージアム的整備において地域住民の事業への参加は必要不可欠である。また、エコミュージアムの考え方を当面さしおいて、最低限必要な横沢入の保全管理に限定して考えても、ボランティア団体のみでは参加規模と持続性に欠け、地域組織の参加は必要である。持続的な保全管理の組織作りを行政、市民団体、地元組織が協力し合って実現し、当面必要な整備を推進しながら、近年のうちにNPO法人を設立し、この地域でのエコミュージアムづくりの研究もする、というのが現実的な進め方であろう。 3.整備・復元方策についてはまず検討機関の設置を ・見学者の安全確保を優先に 横沢入の歴史・文化遺産の整備は、その貴重さが広く認識され、多くの都民が訪れることを前提に、崖や登山道の危険防止をまず第一に行われなければならない。具体的には、登山道の修理、手すりやロープ、階段などの設置、崖の崩壊防止、道標・説明板の設置などが急がれなければならない。 また、対象範囲が非常に広いため、遺跡のすべてのエリアを常時十分に安全に見学可能な形に整備することは将来にわたっても難しい。そこで、もっとも典型的な遺構群を重点的に整備し、他は実態に合わせて冬季のみの見学エリアとしたり、区域外に学習展示施設を設置し、その展示内容の充実によって全体像を把握できるようにするなどが必要である。 ・将来の具体的な遺跡像は専門家をまじえた検討機関で 長い歴史の経過の中で、石切場や地下壕には、築かれ利用されていた時代の姿からかけ離れている部分もある。石積の復元など可能な限り本来の姿に近づけ、斜面の土留めなど現状以上の崩壊をくい止める努力が必要だが、復元のためには、上部の斜面崩壊で埋まってしまう前のテラスや崩れる前の石積など本来の姿をできるだけ正確に把握する必要がある。そのためには一定の調査が必要であり、そのうえで復元後の将来像を描かなければならない。また、復元にあたっては、横沢入全体の自然環境や景観との調和を守りながら行う必要があり、その当時使われていた材料と工法によって行われることが望ましい。 これらを実現するためには、行政機関及び主な地権者であるJR東日本と環境保全団体が主体となり専門家をまじえて十分に検討する必要がある。この検討機関には以下の役割が期待される。 〇石切場、地下壕についての調査エリアを設定し調査計画を作成する。 〇調査を実施し、遺跡の本来の姿や当時の石積の工法などを明らかにする。 〇斜面の崩壊防止など遺跡の維持管理方策について検討する。 〇石積等を復元した後の遺跡の将来像を描く。 〇石切場等の復元方法を検討し復元計画を作成する。 4.学習体験コース及び施設のモデル案 @学習体験コース 当会は2000年の冬以来、冨田の入り石材搬出古道から上部の石山池を中心とした天竺山東尾根遺構群の整備を進めている。この遺構群では採掘坑、テラス、ズリ場、古道の石切りに伴う各種の遺構が比較的限られた範囲で揃っており、保存状態も比較的良好でアプローチも困難でなく、石切場と採石過程の全体像を捉えやすいと考えるからである。この地域の中では以下のいくつかの登山道を往路または帰路として利用する数パターンのコースを選択し得る。 登山下山路1東尾根 尾根道は上部が採石によって切られているため石山池へ下る部分が急、尾根末端近くが下るとき滑りやすいという難点があるが雑木林の明るい道。 登山下山路2南面石切道 石材搬出のため一定の傾斜に人工的に造られた道で道自体が文化財。掩体壕によって下部が切られている。 登山下山路3冨田の入り石切道 もともとは石材搬出の古道で戦前戦後の一時期ズリ石搬出のトラックが出入りするため拡幅された。道が沢になりつつある。 登山下山路4三内自治会館から三内神社へ 横沢の西に隣接する三内地区の鎮守、三内神社の里宮、奥宮へ向かう道。自治会によってよく整備されている。江戸期のものと思われる伊奈石製石段は文化財。 登山下山路5小机横沢林道から三内神社へ 天竺山北尾根の尾根道。やや急で下るとき滑りやすい部分がある。 (注・2の南面石切道については2003年10月現在、前記市民協議会傘下の他団体の協力も得て、登山口に階段を設置する作業や、路肩崩壊を防止する作業が進められている。) A横沢新駅・駐車場・トイレ 現環境を守るため横沢入内部への車の進入を防止・制限することが必要で、そのためのもっとも望ましい方法はJR五日市線横沢新駅の設置である。また、このことは地域住民の悲願でもあり、新駅の設置が、横沢入整備事業への住民参加を促すための契機にもなり得る。 同じ意味で駐車場も必要である。横沢側は必置だが、可能なら初後沢側にも。場所は、土地所有などの条件を無視して言えば横沢側は五日市線沿いの横沢入にできるだけ近い場所。初後沢側は入口部分。大型車が数台駐車できるスペースで同じ場所にトイレも。 Bビジターセンター 横沢入沢地内に建物が無いという現環境の良さを守るため区域外(横沢入入口、大悲願寺東側、たとえばJR工事事務所付近)に設置し、機能・規模も当面最低限のものとする。ビジターセンターの機能は ・管理用車両、障害を持つ人のための必要最小限の駐車スペース ・維持管理のための用具・資材置き場 ・作業者の詰め所 ・入場者管理 ・急病者、けが人などの応急手当て ・トイレ(移動式のものでよい) ・自然・歴史遺産の最低限のガイダンス C展示・学習施設 横沢入をあくまでも体験学習の場と位置づけビジターセンターの機能を上記のような最低限のものとするかわりに、将来的に、区域外の少し離れた場所に学習・展示施設の設置を想定する。この施設は自然系・歴史系の地域博物館で、規模と内容しだいでエコミュージアムのコア施設と位置づけ得る。場所としては、初後沢入口の、1980年代、自然史博物館誘致運動の際に想定された場所、五日市駅前の旧五日市駅跡地、増戸会館に併設、ファーマーズセンターに併設、などが考えられる。内容は ・横沢入、秋川を中心に周辺の自然と動植物についてのガイダンス ・周辺の史跡、文化財についてのガイダンス ・伊奈石採石に伴う加工跡のある岩石や秋川の化石など ・「戦車橋」と戦時下の五日市・多摩の展示 ・横沢入の間伐材を利用した木工製品の展示即売 ・横沢入の炭焼窯跡のレプリカ ・伊奈臼や民具と復元品による体験コーナー などとし、定期的に木工教室、草木染め教室、化石教室、臼挽き体験とそばづくり教室、などの体験学習が行える学習施設を設ける。 5.里山保全地域、史跡の指定を 横沢入は都内でも随一の自然環境と歴史・文化遺産に恵まれた貴重な場所であり都民全体の財産である。将来的には都の里山環境保全地域に指定し、都の公有地となるのが望ましい。また、伊奈石石切場遺跡群は都の史跡として指定しその保存・活用は都レベルの課題とするべきである。 6.将来像と諸問題について話し合う場を早急に 上記の里山保全地域指定、史跡指定、またあきる野市が2003年6月議会で言及した都市計画公園指定(あきる野市議会だよりNO32)を含めた土地利用の大枠や、大まかな整備方針、維持管理の主体となる組織の形成、経費の問題、地域コミュニティづくり、行政・市民団体・地元住民の協力関係等々を話し合うために東京都、あきる野市、地権者、地元住民、有識者、市民団体で構成する検討会議を早急に設置する必要がある。 7.維持管理の主体となる組織、横沢入を中心とする地域コミュニティ 維持管理や運営のための組織作りは事業全体の成否にかかわる最も重要な課題である。前に述べたように、横沢入をフィールドとして活動する個々の市民団体や不定期のボランティア行事での整備作業に維持管理を頼っている現状は、規模も不十分で持続性にも欠ける。行政と地域住民の協力が不可欠だが、地域住民の参加も、個人レベルではまとまりにくい。したがって、自治会などの住民組織や総合的学習のフィールドとして横沢入を利用する学校のPTAなどの組織ぐるみの関わりを模索する必要がある。 また、将来的な保全・運営の主体として、例えば「横沢入・里山の会」のような基金をもとにして安定したNPO法人組織が必要になって来るであろう。このNPO法人組織が行政、自然分野、歴史分野の専門家、五日市の地場産業の専門家、環境保全・生涯学習のボランティアをまじえて運営・継承の主体となって行くべきであろう。 具体的な進め方としては、 @現在(2003年10月)6団体1個人で構成している前記の横沢入里山管理市民協議会に、より多くの市民団体の結集をはかる。 A市民協議会を通して、複数の団体による共同企画、共同作業の経験を積み重ね、横沢 入の自然環境や歴史遺産の現状の問題点についての共通認識を深めるとともに技術や 経験を交流し、以後の整備活動を統一して進めていくための土台を形成する。また、 より広範で安定した管理主体を築くための準備をする。 B行政が主導して自治会などの住民組織に整備活動や管理・運営への参加を呼びかけ、 市民協議会と合体してより広範で大きな管理 運営組織を形成する。この組織は、当面 の維持管理だけでなく以後の整備計画の作成やビジターセンターの設計や運営、利用 者管 理、イベントの企画と実施などについても行政ともに将来的に担っていくことを 目指す。 Cこの組織が将来的に担わなければならない上記の諸課題について深めるため、組織内 にいくつかのプロジェクトチームを設ける。ま た、組織上の整備を進め、事務局体制や基金運営を確立しNPO法人取得を目指す。 |
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